【教える】「教えたい」つもりが「話したい」という自己満足に

「教えたい」つもりが

娘との対話で、
「あ、自分(娘)が聞きたいことだけ聞きたいんだな」と感じることがあります。
うん、私だってそう思う。だって、対話と思っているのは私だけで、一方的に話しているだけ。ただの「小言」に聞こえます。

といいつつも、親としては、「理解してほしい」、「体得してほしい」、という気持ちが全面的にでてしまいます。お話という名の説教(?)になってしまうんです。
「一生懸命に」、「大切な我が子のため」、「私が伝えなければ誰が伝えるのか」、「しつけは親の責務」、「絶対必要なことだから」などと思いながら。
教えるなんて、傲慢かもしれないとは思いながらもコンコンと。

短めに後腐れなく話そうと考えもあるのです。しかし、手応えを感じられず、娘が私の話を「まったく聞いていないのではないか??」と思うと、手を変え、言葉を変えて、結果的に長くお話をしてしまうんです。

実は「話したい」

そんな私の話を、今は素直に聴くことが多い娘ですが、半分は上の空にも見えます。「知らんし」、「大丈夫やし」、というのが本音なのかもしれません。ときにはあくびしたりして、「はよ終わってくれへんかな⋯」と思っている気持ちが垣間見えます。

実際に、私の話が現時点でどれだけの役にたっているでしょうか。私が話したことを娘が将来思い出して「そんなこと言ってくれていたな」と日常の一コマとして思い出すことはあっても今は⋯。
もしかすると、話し手の自己満足ではないかと思うのです。

そう、話したいのです。苦労して体得したことがたくさんあるのです。自分の経験が誰かの役ってほしいし、役立ててほしいし、聞いてほしい。
でも、聴く耳がないと受け入れがたいのも事実。

教えてもらいたいと思う相手にこそ届くものですから、「教えたい」のはこちらの都合で。教えていると信じたいけれど、実はただ「話している」だけ。私は「話したい」だけ、「聴いてほしい」だけなのかもしれません。

「教える」にはどうすれば

そうすると、「教える」にはどうすればよいのでしょうか。言葉で教えるより、やってみせること、行動で示すことが説得力があると思います。

自身を振り返ると、娘に言っていることの中には自分もできていないこともあるんですよね。まさに説得力がない⋯。今はまだ幼くて、大人は「できている」と思っているのかもしれませんが、早々に見透かされるでしょう(既に見透かされるのかも⋯)。

後輩との接し方も同じで。後輩でなくても、後続へ何かを伝えるときに、何よりも「教えること」ができるのは自分の今の行動かなと。伝えるよりも、行動を見るほうがイメージできます。自然と学べます。その上で、聞きたいことは聴いていただける。

本当に聞きたいことって、全力で傾聴できるものですよね。だから、自分から話すのもいいけれど、私はおせっかいになりすぎないように気をつけています。

話したいから話を聞いてもらうこともありますけれど。聴いていただけるのはありがたいことですね。

 

 

【日記】
確定申告書作成、スライド作成など。

【姉妹日記】
次女、今朝の第一声目は「カレー食べたい」。朝いちでカレーライス。その後ごきげんに作歌しながら登園。
長女はカレーパン。生まれて初めてだそうで。長女は朝いちのカレーは受け付けず、少なめに食べて登校。足は鉄棒であざだらけです。

 

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