書いたときは、たしかに必要だった
最近、昔のメモを見返しました。
そのときは「忘れたくない」「今のうちに残しておきたい」と思って書いたものです。
アイデアが消えてしまわないように必死に書き留めた紙の切れ端や、なぐり書きのメモ。
あの頃の自分が一生懸命書だったことを思い出しました。
でも、今見ると、どれももう必要なかったんです。数か月前の、まだ新しいメモでさえ、処分しても不思議と惜しくありませんでした。
書いたときは本気で必要だったんです。
でも、時間が経てば自然に手放せるようになっていました。
あの頃の自分にとっては大事でも、今の自分にはもう「通り過ぎたこと」になっていたのですね。
書くことも、買うことも、「安心するため」
これは「モノを買うときと同じ」だなと思いました。
欲しかったものを買って、手に入れた瞬間に満足し、実際にはあまり使わないことがあります。
それでも「買う」という行為そのもので、心が少し落ち着きます。メモを書くのも同じ。
「書く」という行為が、思考や気持ちの整理をしてくれているから、書いた時点で、もう「少し安心」しているんですね。
書くことも、買うことも、
その内容やモノ自体が大事というより、心のバランスをとるための行動なのかもしれません。
手放すタイミングは、役割を終えたとき
だからこそ、「溜める」と「手放す」をセットで考えてみる。
メモは「見返すため」に書くものだと思われがちですが、
もしかしたら書いた時点でひとつの役割を果たしているのかもしれません。
書いたら残しておく。時間が経って「もういいかな」と思えたら、手放す。
無理に振り返らなくてもいいと思います。
(ちなみに、紙のメモの場合、現実的にメモを捨てる・残すを選ぶのが大変なら、1冊のノートに時系列で書いていくのがおすすめです。これは大学院の教授が実践されていました。)
モノも同じで、必要な時に手に入れて、役目を終えたら手放す。
「もう必要ない」と感じられたとき、それはそのメモやモノが自分の中で役割を終えたのでしょう。
手放すことは、忘れることじゃなくて、もう役割を果たしたんでしょう。
自分の中にエッセンスとして組み込まれたのだと思います。
そしてまた新しいものを取り入れていきたい。今日も新しいメモに囲まれています。