【親業】「こうしたらいいよ」が通じない時代に、伝えたいこと

ローズマリーの使い方は教えられる。

経験値を渡せたらいいのに、と思うとき

昭和世代、40代後半の私。
社会の変化も著しく、これから生きていく子どもたちや若者に、実践的な面で「こうしたらいいよ」と伝えられることは、かなり少ないのではないかと思います。

それでも、子や後輩になにかを伝えたいという気持ちはあります。
最近は「人生2周目」や「転生」もののコンテンツも多いです。多くの情報を使って効率的に経験を積みたい…という思いが強まっているのかもしれません。

私も、もし自分の人生で得た経験を子どもたちにそのまま引き継げれば、たとえ「2周目」とまではいかなくても、少しは力になれるのではないか。「経験値を積まずにレベル40」みたいなことができるのではないか。そんなふうに、心のどこかで思っているのかもしれません。

「正解」を教えてあげられたらいいのにと願ってしまうのでしょうね。

正解らしきものがあった時代、なかった時代

誰もが「正解」を知りたいと思うはずです。そのほうが、効率よくゴールにたどり着けるから。
無駄な力を使いたくない、間違った道を進みたくない、失敗したくない、そう思うのは自然なことです。

ただ、今の世の中、ますます「正解」が見えにくくなっているようにも感じます。
もともと絶対の正解なんてなかったのかもしれませんが、それでも以前は、「正解らしきもの」がありました。

たとえば、高学歴を目指して、大企業に正社員として採用されて、終身雇用で退職金をもらい、その後は「働かずに暮らす」というルート。
こうした人生の進み方が、ある種の「正解」とされていた時代もあったと思います。
今でも、その価値観に共感する人もいるでしょう。

士業も、「正解」や「確実性」に近そうに見えるからこそ、目指す人が多いのかもしれません。
でも実際には、そうした道を歩んだからといって、必ずしも幸せになれるわけではないのです。

大企業に入っても、さまざまな事情で続けられなくなる人もいます。士業も、決して楽に生きられる職業ではありません。一見余裕があるように見えていても、見えないところでの葛藤もあるはずです。
社会的なイメージと実際の生活とのギャップも、大きいものではないでしょうか。

情報より、暮らしの中で伝えたいこと

だから、「こうすれば正解」という簡単な人生戦略は、ますます立てにくくなっています。
「高学歴を目指したらいいよ」「大企業に入ったらいいよ」「士業になれば安泰だよ」と伝えたとして、仮にそうなったとしても、それで幸せになれるかどうかはまた別の話です。

綺羅びやかな世界ばかり見てしまうと、「そこにいなければ不幸」と思いがちですが、知らない世界のことなら、気にも留めずに落ち込むこともありません。
情報があふれる時代だからこそ、自分が「持っていないもの」ばかりに目が向いてしまうというのも、現代特有のつらさだと思います。

だから、情報を見ない、あるいは距離を置くというあり方も、ひとつの幸せの選択肢。
他人と同じものを目指さないこともまた、ひとつの幸せの形なのかもしれません。

「こうしたらいいよ」「ああしたらいいよ」というアドバイスは、あくまで自分が見てきた世界が前提。でもこれからの時代は、情報をどう取捨選択し、どう使っていくかーそれ自体が大切なスキルになります。私たち自身も、まさに現在進行形でそのプロセスを経験しているところです。

情報ひとつとっても、新しい時代を生きていく子どもたちに教えられることは、実はあまり多くありません。
それよりも、むしろ「古典的なこと」。たとえば、ちゃんとご飯を食べるとか、運動するとか、清潔にして過ごすとか。歌ったり、笑ったり、踊ったり。そういう営みのほうが、案外ちゃんと伝えられるし、大事なのではと思うのです。(踊りは⋯私は教えられないですけれど)

一緒にご飯を食べて、一緒に出かけて、お話して、楽しんで。
そういう時間を通じて伝えられることが、これからはますます大切になるんじゃないか。
最近は、そんなふうに思っています。

【日記】
参観、家事。収穫した野菜の調理など。

【姉妹日記】
参観。長女は集中して授業に参加していました。次女は姉に近寄らないように釘をさされています(前年授業に乱入しまして)。次女は退屈して脱出。年長の次女が来年一緒に通うのかなと思うと時の流れを感じます。
公園ではシロツメグサを振りかざし「木」に話しかけて遊んでいました。次女が話しかけるたびに風がふき木の葉が揺れて、本当にお話しているようでした。

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