【表現】ピクトグラムとクリニカルアートの間にあるもの

「感覚を大切にする」絵画、クリニカルアートを体験しました。

ピクトグラムとは

「ピクトグラム」とは、言葉を使わず、視覚だけで意味を伝える記号的な絵のことをいいます。思い浮かべやすいのが、非常口やトイレのマークなど。誰でも一目で理解できるようにデザインされています。

現代はこの「ピクトグラム的な絵」があらゆる場面で使われる時代です。交通標識だけではなく、スマホのアイコン、資料の挿絵、SNSの投稿…どこを見ても、「意味が伝わる絵」が選ばれています。情報量の多い社会で「わかりやすさ」や「スピード」が重視されているのかもしれません。

アートの世界のことは詳しくありませんが、日常的には写実的で時間をかけて味わうようなアートよりも、意味がすぐに伝わる記号絵が求められていると感じます。抽象性や個性よりも、共通認識としての「正解」が重視されている。

そんな時代の中で、あえて「正解のない絵」を描く時間に、大きな意味があるのではないかと感じています。

「上手に描く」ことが目的じゃない「クリニカルアート」

ピクトグラムは「共通の意味」を持つ記号ですが、そこに「個人の感情」や「揺らぎ」はあまりありません。わかりやすく、整理されていて、誤解がないように作られているからこそ、多くの人に届く。けれど、それは「感情の余白」が少ないということでもあります。

「クリニカルアート(臨床美術)」はその対極にあるように思います。クリニカルアート(臨床美術)とは、医療や福祉の分野でも用いられるアート活動で、上手に描くことを目的としません。むしろ、描いた絵が何かに見えるかどうかも重要ではなく、その人が何を感じたか、どう表現したかを大切にします。

今回は子どもたちのクリニカルアート体験でしたが、子どもたちは皆、感じたままに描くことがとても嬉しいのですね。まず、スイカを見て、持ってみて重さを感じ、叩いてみて音を聞いて、切ってみて香りを感じます。最後は食べるのですが、これは絵を描き終わってからのお楽しみ。

香りや重さを感じながら描くスイカは、丸い形、赤い色などは重要ではないんです。スイカを四角く描いても、ピンクで塗っても、誰も「間違ってる」とは言いません。評価されることもなく、自分が感じた世界をそのまま描いていい。五感で感じたことが、そのまま線になり、色になります。

そこには、誰にも真似できない「その人だけの表現」ができあがります。

AIにはない感覚、癒やしがそこにある

AIは、絵を描くこともできるようになりました。ピクトグラムのようなわかりやすい記号絵も、リアルな風景も、驚くほど自然に再現してくれます。

(以下ChatGPT作)

でも、クリニカルアートのような、然できたにじみや線の揺らぎ、自分でも気づいていなかった感情の発露のようなものは、AIにはまだ難しい。AIは技術的にはリアルな描写はできますが、描いた人の「緊張」や、そこにいた人の「空気」といった感情はまだ表現できません。AIの作品について、なんか血が通っていない⋯と感じることはありませんか。「リアルに感じさせること」はまだ人間の得意分野ではないでしょうか。

人の手で描かれた線や、塗り重ねた色には、見る人の心をかき立てる力があります。それは、情報ではなく「感覚」だからかもしれません。子どもの描いた絵をみてそう思いました。

「効率」や「正解」が重視される社会の中で、正解を求めないアートにふれると癒やされます。
ピクトグラムのように、誰でも理解できる絵がある一方で、クリニカルアートのように、誰にも理解されなくても大切な表現がある、そういうことを「感じた」経験になりました。

 

【日記】
実家、義実家へパンを持って。

【姉妹日記】
三つ編みをほどいた次女は「おしりたんてい」の「パーマネント警部」。警部と同じくダジャレを言います。
「チーターがおっこチーター」「カッターはあぶなカッター」
・・・

長女、大舞台に向けてダンス教室で特訓中。悔しい気持ちをぐっとこらえて、指摘事項を紙に描いてひとつずつ家で振り返っています。

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